サルが抱き合うのが知能なのだ。そういう意味では人工知能の考え方は「皇帝の新しい心」から「ゲーデル・エッシャー・バッハ」へと徐々に現実から離れていったように思える。手足のない人工知能は存在しない。それは自転車に乗っていれば分かる。
人類には二種類ある。自転車に乗る人間と、乗らない人間である。自転車に乗る人間は脚で走ると思っていない。内蔵で走る。目で走る。脳で走る。心臓で走る。皮膚で走る…
自転車乗りはお風呂に入るのも自転車について考えねばならない。風呂上りにすぐ自転車に乗る人はバカである。万が一風呂上りに自転車に乗らねばならぬ時は、シャワーだけにする。皮膚をゴシゴシ洗ってはいけない。皮膚の表面に汗の薄い膜が出来ていないと、ものすごく身体に負担がかかるのだ。
胃腸が悪い人は自転車に乗れない。ツール・ド・フランスの選手は1日に8000kcalを消費する。我々素人でも12時間以上ツーリングをすれば5kgぐらい体重が減るのはよくあることだ。
心拍数なんて自転車に乗るようになって初めて気にするようになった。
自転車で前に進んでいるとき、脚からのエネルギーだけで前に進んでいると考えたことは一度もない。風もある。重力もある。だがやはり、脳が一番大きなエネルギーである。全身運動ではない。筋肉だけで身体が動いていると思ったことは一度もない。全てである。毛一本にしても体温調節の最後の砦である。恐ろしいことに、精神まで含めて完全に一つのシステムである。心の問題が自転車の前に進む原因である。なぜ山を目指すのか?そこからはじまっている。経験も心であり、知能も心だ。
手足のない脳は存在しない。ホーキング博士にも立派な手足がある。動かないだけでそれは脳につながっている。脳と手足を区別して何かを考えるのは極めて異常な行為である。それが合理的な場面は医学だけ―――頭が痛いとか手が怪我したとか、病気の原因や治療方法を考える時だけである。日常生活で―――法律とか、穢れとか、人権問題について考えるときも―――私は恐ろしいことを喋っている。手足が欠損している人間は、我々となにか違う。とも言っているのである。健常者には思いも寄らない、新しい知能があるかも知れない。とも言っている。しかし、完全に肢体の芽すらない欠損はないであろう。兎に角、元来、発生学的に、手足のない知能はあり得ないことを再確認しなくてはならない。
それが可能なスポーツは自転車だけだ。
手足、胴体、皮膚、感覚器、内蔵、あらゆるものは脳と区別がつかない。脳はそれらをもって物事を考えている。足が地面を踏みしめ、手が触れ、目が輝き、皮膚がざわめく。愛や悲しみとは、サルのような動物の行動から生まれたのである。
手足のない人工知能は存在しない。