数日前からリカンベント界騒然でブログに書こう書こうと思いつつ時間がなくて書き込めなかった埼玉のニキリンさんの10万円セール。メチャクチャ安い。
人は誰でもリカンベントに乗っちまえば完璧にエンジンがついている乗り物っていうか人間の文明そのものに見切りがつきます。精神存在的にはE・カレンバックと対談していた頃の宮崎駿なんか軽く春香に超えてしまいます。もっと分かりやすく説明すれば昨晩のやよいのkosmos,cosmos流出ぐらいのチャンスです。さあ買った!
参考までに私が乗った試乗会の様子。
病院休んで、女房と酒飲んで、近所の本屋でゲーマガ買った。
なんかmixiの人が悲しんでるので
・まず、誤解その1。「つみきのいえ」がゴミだという言い方はマズかった。むしろゴミとさえ思っていない。いい意味でも悪い意味でも全くなにも感じない。全然心に残らない。なんであんなものが評価されているのか分からない。ああゆうのが一番をとるような状態では作家アニメ(アートアニメというらしい)の世界は壊滅状態だと言う事が言いたくて「ゴミ」と言ってしまった。
例えば俺が「うわっこれきめえ!あざとい!狙ってる!」と言う悪い意味で心に残ってるのが↓
この父と娘のあざとい臭っいメロドラマみたいなゴミアニメ「岸辺のふたり」。それでも、「つみきのいえ」よりよっぽど環境問題に配慮してるし、風景も、画面横切るチョイ役も、一つ一つ存在感があってはるかにマシ。
「つみきのいえ」ていうか加藤久仁生の作品全てが悪い意味でも良い意味でも、俺の心に残るものがない。なんで爺さん最上階に住んでるの?なんで水にもぐる重装備買ってるの?登場人物にも風景にも生活感や存在感が全くない。
俺はそういう”なんで存在してるのかわからない”ものが画面を横切るだけで頭が痛くなって目を開けていられない。そういう意味では「つみきのいえ」をBSかなんかで見たとき同時にやってたこれまたキャラクターデザインが中国人がつくったみたいでキモくて全然好きじゃないんだけどKUDANのお父さんが牛になるCGアニメのほうがまだ存在感があるだけマシだった。
加藤久仁生さんには、登場人物や風景の、生活とか、なんでそこに存在するのかとかを、無視しないで作品を作って欲しいです!加藤久仁生さんの作品に登場するあらゆるモノの(映像はすごく丁寧でキレイだけど)存在が、雑で乱暴すぎます!私は加藤久仁生さんの作品は安心して見られません!届け!この思い!
ちーちゃん誕生日とG3Mac-OS8.5-300MHz。
表題はウチの女房のメインマシンである。記念すべきポリタンク。太古のマシン。これで俺の年収より稼いでるんだからあんまり新しいマシン組むのもバカバカしくなる。
このごろ病院に行って帰宅するからPSP触る時間もありません。今日はやよいSHOWで売る同人誌の表紙を入稿するので4コマはあきらめました。表紙の縮小画像うpしてちーちゃんおめでとう。みたいな感じにするつもりだった。
が、女房と打ち合わせして資料をzipにして女房のmacに送っていったん解散して適当に下絵をシコシコ描いて女房のところに行ったら…
…まだ解凍してた。
俺は泣いた。
ちなみに1992年のEPSONの、K6-III+が360MHzで動いてるけど内部16bitのPC-486GRのほうが300MHzのG3より全然速かったぜ!!
表紙はこんな感じになりました。
突然だが、我々夫婦は高円寺に住んでいる。
某芸術系大学を卒業した我々夫婦。結婚してこの地に棲むことにした理由は、まあ少しアニメに興味がある人ならば、それがラピュタ阿佐ヶ谷やセシオン杉並に通うためだってことはわかると思う。
で、最初の1・2年はちょくちょく通ったのだが(ここ数年は見てないな…)そこでしっかりこの目で見たものは、日本の作家アニメが腐りきっていると言う事。どんなに良くても「お花が咲いたー」「わーきれいー」レベル。ハッキリ言って俺が嫌いなニコニコ動画のほうが面白い。まあせいぜい得たものと言えばユーリのノルちゃんが別嬪さんつれてプルプル歩いているところを見られたことぐらい。
今回アカデミー賞を受賞した「つみきのいえ」。はっきり言ってゴミ。加藤久仁は努力してるのは分かるんだけど、外国の真似を一生懸命追っかけているだけで、全く”日本人のアニメ”ではないことは宣告しておく。そういう意味では山村浩二のほうがまだマシだけど、それでもぬるい。こんな作品がよく吟味されずに褒められている状態では日本の作家アニメなんかCM素材としては使えるかもしれないけれど、芸術作品としては誰も見たいとは思わないはずだ。
ここ数日間、「つみきのいえ」を褒めているマスメディア・批評家が居たら、そいつはバカだとマーキングしておいて正解です。