まずはじめに断っておく。人の死を喜ぶことは最低だ。だけど言わせてもらう。
灰谷健次郎の書く文章類は最低最悪のものであった。それは純朴で無責任な良心の典型である。まず今日は彼の死を喜ぶ。この国は彼のような深く物事を考えない知識人のせいで長い遠回りを強いられたと思う。それだけだ。
今日は妻のチェンバロ教室の仲間数人とともに新座市にある小さなチェンバロの工房に行った。そこで今までの常識を覆すいろんなことを教わった。写真はチェンバロの爪である。ピアノと違って強弱がつけられない。だがそれが良いのだ。PCの進化と同じで、「どうしてそれが存在するのか」ということを理解したときの喜びは大きかった。…